匂い。匂い、匂いフェチ。 俺は頭の中で、ジュンの言葉を何度か繰り返した。それから俺の胸元を見る。美しい顔をした少女が、頬を赤らめ、瞳を潤ませ、恍惚の表情で俺にもたれ掛かっている。匂いフェチ? 高鳴りすぎでうるさかった俺の心臓の鼓動は、今や止まっているんじゃないかとさえ思った。匂い? 緩やかに巻いた髪が、俺の手首をはく。さらり。艶やかで滑らか。匂い・・・。 つまりこうだ。 俺の頭は突然に猛回転を開始した。 つまりだ。彼女、チカちゃんは、俺のことが好きなわけじゃない。俺の匂いが好きなだけなんだ。ジュンの言葉を思い出す。チカは、お前のことが好きなわけじゃない。あれは超絶美少女の元自分の彼女を盗られると思って言ったヒガミの言葉じゃなかったんだ。あ、ジュン、お前がそんなこと言うヤツだなんて思っちゃいないぜ。でも一応そんなことチラっと考えただけだ。俺は悪くない。だよな。 俺の匂いが好き。 俺が求めていたのは、俺のことが好きな女の子。 しかし同時に、俺のことを俺よりも先に好きになった女の子だ。その点ではチカちゃんは申し分ない。 俺は迷った。当然だ。俺の夢を実現させられるかどうかがかかっているんだ。 どうしよう。 どうしようか。 どうしようもない。 いや、どうにかしようか。 答えはでない。幸いなことかどうか判らないが、現時点で俺はチカちゃんに問われた「私と付き合って」への返事は返していない。 だから、今のうちならば断ることも簡単だし、OKすることも出来る。 俺は何て都合のいい男なんだ。 自分の悪さ具合に少々感心する。やはり、男はこうでないとな。 とは思ったが、天然で直球勝負の俺だ。ここはビシッと返答しよう。 後悔はしない主義だ。そして俺は、ひとつの答えを導き出した。 これしかない。 俺は垂らしていた両手をゆっくりと持ち上げ、彼女の両肩に置いた。そして、躊躇うように押す。チカちゃんの頬が、額が、鼻が、俺の胸から離れていく。名残惜しい。 チカちゃんは何でこんなことするのか判らないという表情で俺の顔を見上げる。 俺はチカちゃんの目を真っ直ぐに見つめた。やはりかわいい。 「チカちゃん」 「なぁに?」 甘い声で返事を返すチカちゃん。やはり、愛おしい。 俺は、ゆっくりと息を吸い込んで言った。 「・・・少し、考えさせてください」 「は?」 「え?」 ジュンとチカちゃんが、短く俺に問いかける。 俺の、迷った末の、正直で率直な、彼女への返答だった。 数分後、俺とジュンはハンバーガーショップにいた。右手にバーガーを常備し、左手でポテトやら飲み物やらをつまんでは口に入れる。 あの場の微妙な空気は、大人なジュンが彼女を上手いこと家に帰して事を終えた。 「・・・なあジュン」 「・・・ん?」 お互い、歯切れが悪い。 「彼女、俺のことが好きなわけじゃないんだな」 「・・・そうなるかな」 「俺の匂いが好きなだけなんだ」 「そうだな」 「あ〜あ・・・俺、女の子から告白されたの、初めてだったのになぁ・・・」 「・・・・・・」 「こんなに落ち込むの、メグミ以来かもな・・・」 メグミというのは、俺の最長記録、一週間続いた女の子だ。初めてのデートは、俺への誕生日プレゼントのショッピング。長い時間かけて二人で選んで彼女が買った。これぞ運命、まさにフォーチュンと信じかけていたら、別れは俺の誕生日の前日だった。一週間前に買ったプレゼントを手に、彼女はこう言った。「ねぇ、姿くん。これ、ミナミくんへ、どうやって渡せばいい?」 ミナミくんというのは、たまたま化学の実験で俺とペア組んで、そこそこ仲良くなった同級生だ。偶然にも俺と誕生日が一日違いなこともあり、当初はその話題で随分盛り上がったものだった。 ・・・どうやら、彼女の頭はそのころ、ミナミくん、ミナミくんで一杯だったようだ。 俺の「もうすぐ誕生日なんだよね」は、『ミナミくんの誕生日なんだよね』に変換されて伝わったらしい。 それから、俺の「付き合って」は、『ミナミくんへの誕生日プレゼント購入の買い物に付き合って』に誤解された。 結果、彼女は俺の好意にも恋にも下心にも気付くことなく、俺たちは破局を迎えたのだ。 さすがの俺もこのときは落ち込んだが、どうやら今回もそれに近いものがあるみたいだ。 ぼんやりと過去を思い返して、俺はふと、呟いた。 「どうしようかなぁ〜・・・」 「姿?」 「なんかでも、付き合うのも、アリかも」 「おい、お前・・・」 だってそうだ。俺は幸せが欲しい。こんなにも女運に見放されている俺が、初めて掴みかけた奇跡。俺のこと、もとい、俺の一部分に執着的に好意を寄せてくれている女の子。この際、贅沢なんて言っている場合じゃないんじゃないだろうか。 「もう、いいや。俺はチカちゃんが好きだし、チカちゃんも俺のこと嫌いじゃない。これ、何も問題ないんじゃないかな」 「姿。自棄になるなよ」 「自棄にもなるよ。俺には幸せラブラブな恋物語は描けないんだって判ってきたんだから」 「そんなことないさ、姿にだって・・・」 「お前、俺の一年間見てきただろ」 「そうだけど、自分を捨てようとするなって。彼女はお前を幸せになんてしてくれない。それは俺が判ってる」 「だけどな・・・そうは言っても、ジュン・・・」 「・・・・・・」 沈黙が流れる。 眉間にしわを寄せて、ジュンは唇と噛みしめた。 不意にジュンは、いつの間にか空になっていたポテトの入れ物を、折り目通りに押しつぶした。 「よしわかった。じゃあ」 不敵な笑みを浮かべるジュン。 俺は、普段見せないジュンのその表情を不思議な面持ちで見つめた。 ジュンは片腕をテーブルに乗せ、向かいに座っていた俺のほうへ身を乗り出した。 何か、隠しているものを出せる機会の到来に、スッキリしたかの様な顔。 唇の端をあげ、微笑んでジュンは言った。 「姿、俺と付き合おう」 周りの音が消えて、時間が急激に速度を緩めた。 聞こえた言葉が、回り道をしながら、脳に届く。 そして脳内で再生された瞬間、俺の恋物語を描く三角形は、少々形を変えたのだとぼんやりと理解した。 -2010 06 01 アザナ- |